中途半端に色々なことに手を出す。
これはどちらかと言うと良くないことだというのは幼少期の頃には教えられたような記憶がある。
教えられたというか「中途半端」「手を出す」という言葉そのものにネガティブな印象が染み付いてしまっていて、世間的にみてこの言葉の中にポジティブな要素が感じられない。
社会人になって1年目の頃、配属されて間もない職場ではボクよりもひと回り年上の先輩が、上位上司にこんな説教をされていた。
「中途半端に取り組むくらいなら何もしないほうがまだ良い。いいか?中途半端が一番ダメだからな!」
もちろんその活動の質にもよってくるけれど、ボク(たち)は知らず知らずのうちに狭い世界の中にじっと閉じ籠り、一つのことを極めることを美徳とする風潮があった。
そしてその価値観は、どうやら日本独特なものであることをインターネットが世界をつないでくれてはじめて気づいた。「この道一筋」なんていう日常的な言葉は日本語にしかないのではなかろうか。
こんな内容の記事がネットニュースやブログに溢れるようになってきた。
確かにボクが小学生の頃、プロF1レーサーの中島悟氏が華々しくレコードデビューを飾ったことがテレビで報じられた時も、バスケットボール選手のマイケル・ジョーダンが「幼少の頃から夢だった」というメジャーリーグの世界にデビューしたときも、その新しい一歩を敬う気持ちよりも先に軽蔑に近い感情を抱いたことも憶えている。
特に中島悟氏がブラウン管の中で歌の収録を行う場面が映し出されるのを、リビングで家族と一緒に見ているときは家族皆で同じようなネガティブ感情を抱いた。
このとき、父親が幼い妹に向かって
「ねぇ、あの人が歌っているのを見てどう思う?」
「イヤだ!」
「なんでそう思うの?」
「だってレースやる人でしょ?レースを一生懸命やらなきゃ」
そのあとのやり取りは憶えていないけど、父親の満足そうな笑顔を思い出す限り、父は妹が健全な感覚を持っていることに満足したのだと思う。
「”本職がレースなのだからレース以外のことに手を出すべきではない”という考え方は本当に正しいの?」
残念ながらボク自身はそんな疑問など持たず、むしろ妹の言うことは正しいと共感した。
時代は流れ、自分自身の手で何かを創りたいとウズウズしたのは、妻との結婚が決まり、式の準備をしていた2006年頃。
インターネットがどんどん身近になり、スマホやクラウドという概念が浸透し始める一歩手前だった。
AmazonのEC2クラウドやiPhone、Androidが海外で話題になったときは本当に全身に鳥肌が立つような興奮をおぼえた。
これはもうチャレンジしない手はないということで、以前から向いてないと感じていたハードウェア設計から同じ社内のソフトウェア開発へ異動。
その後は”その道一筋”となるべく無我夢中でソフトウェアの習得に取り組むも、残念ながら志途中でThe Setsu(挫折)。
思えばそれ以前から「明らかに自分はエンジニアではない」と感じていたし、本当は映画や映像が撮ってみたいけど”自分は曲がりなりにもエンジニアだからその道に沿うべき”と、無意識に外の世界へ飛び出してみることを躊躇&拒絶し続けたのだった。
でも今は「もうここに留まるべきではない」と明確に感じてしまったので時すでに遅し。
こうなったらもう、今の場所を飛び出すしか方法はない。正直、高揚感と同時に怒りにも似た悔しさと不安が常に頭にまとわりつく。
でも、今できる小さなことに今すぐに取り組むことでしか外の世界へ飛び出すことはできないから、自分が面白そうだと思うこと、やってみたいと思うことは手当たり次第に中途半端に手を出してみようと思う。
今は「イカしたバイク乗り」を映像に収めているけどそれだけじゃイヤだ。
更に別の分野にも取り組むべく準備なう。
なんか最近は決起ブログのような内容ばかりになってるけど、それはそれで自分のなかで何かを消化しようとしてるのかも。