お笑い芸人ピースの又吉直樹さんの著作「夜を乗り越える」を読んでます。
又吉さんが2015年に「火花」で第153回芥川賞を受賞したとき、メディアに大きく話題として取り上げられた結果、称賛の声以上の「批判」の声も聞こえてきました。
話題になるということは、称賛と批判が飛び交うということでもあります。
そして、そういう話題を取り上げるということは、周囲の称賛や批判に便乗したり同調しているような気がして嫌です。
話題になっていることが嫌なのではなく、話題の中に入っていくことに抵抗がある。
以前に伊集院光さんがラジオでこんなことを言っていました。
”おれ、旬な言葉って絶対に使いたくない。例えばさ、林先生が話題になったとき、「今でしょ?!」がとても旬な言葉だった時期あったじゃない?
ああいう時って周囲からも求められるんだよね。
トークイベントとかでもさ、司会の人が振ってくるんだよ。
「じゃあ、それいつやりますか?」
「いつにしましょうか?」
って。当然「今でしょ!?」を期待して振ってくるんだけどさ。
おれ、意地でも言わないもの。絶対に。
「まあ、準備とか諸々あるんで・・・」
みたいに答えるようにしてね。しつこく聞いてきても、その場の雰囲気全体がそれを期待してるのがわかっても
「まあ、来週くらいですかね・・・」
みたいに。
じゃあ、その言葉が嫌いかっていうとそんなこと無いんだけど。だから、微妙に旬が過ぎて腐りかけたときに使うんだよ。古くなりすぎると今度は逆に熟成されて別の旨味が出てきちゃうから、そうなる前。
それもね、湾曲させて使う。微妙に意味が通らない感じで使うと尚良い。
そうすると周囲はすごく困るんだよ。盛り上がりもしないし、突っ込むことも出来ない。一瞬「はっ?!」ってなる。
「伊集院さん、こないだ一緒に行ったお店良かったですね!また行きましょうね」
「今でしょ!!」”
これ、すごく良くわかります。自分にはこれを公然と人前でやる勇気は無いけれど、どこか人とズレてることがやりたいとか面白いっていう気持ちが常にあるし、「面白いこと」ってこういう「妙なズレ」の中にあるとも思う。
センスがあるとか、研ぎ澄まされてるとか、絶妙・奇想天外っていうよりも「妙にズレてる」こと。
そんな説明になってるような、なってないようなズレた説明してしまいましたが、つまり言いたいのは
少し前まで大きく賑わせた又吉直樹さんの著作「火花」の後に出版された「夜を乗り越える」を読んでみたら、内容が妙にズレていて面白かった。ということです。
この妙にズレた人が芥川賞を取ったら・・・専門家(ぶった人含む)はそりゃ怒るだろうな・・・
と合点してしまうような、どこか妙なズレ。巧妙で見事なズレではなく妙なズレ(しつこい)
「火花」は一行も読んでないですけどね。
例えば以下のような文章(抜粋)。
”上京したとき持ってきた本は、新潮文庫の太宰と芥川を何冊かでした。そこに三島由紀夫の「金閣寺」と谷崎潤「痴人の愛」も混ざっていたかもしれません。後は誰かから借りパクしていたシドニィ・シェルダン。図書館などの施設から借りパクしたものではないです。”
どうでも良いです。って思わず声を出してしまいました。
そもそも「借りパク」って言葉を何の断りもなくいきなり出してくるのは作家としてズレている。全く文学的じゃないし、ビジネス書的でもない。
そんな「妙にズレた」又吉さんが言っていた妙に共感すること
そして本から終始放たれている主張は
文学は高尚なものや、難しいものではない。身近で楽しいものであることを伝えたい。
それと
批判したり否定する方が知的で偉そうに見えるけどそうじゃない。主体的に楽しめることが偉い。
僕は大の映画好きだけど、一番嫌いなのが「批判する人」。しかも「否定した方が詳しい人っぽい」という妙な空気が大嫌い。
映画も本も、正しく理解したり不足点や矛盾を探したりするよりも、面白いところを主体的に見つけられる方が何より楽しい。
そんな感じで「夜を乗り越える」はもっと哲学的な内容かと思ったら、妙に力が抜けている。かといって「ユルい感じが良いでしょ?」という押し付けがましさが全然無くて、他人の「作文」を読んでいるような。
そこがすごく良かったし、「この人、実は言うほど頭良くないのかも・・・」って思わせる安心感と親しみがあるのも、「文学は難しいものじゃない」ことを表現するために意識的にやっていることなのかもしれない。
そんなことを感じながら、読んでみた又吉直樹さんの「夜を乗り越える」。
まだ半分も読んでません。引き続き読んでみます。
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