本日、こんなニュースが世間を騒がせています。
いまどき珍しい・・・なんて思ってたら、驚いたのはニュースの中の以下のくだり
”西成署によると、バイクや車で走っていたグループに、居酒屋の客が「うるさい。カラオケが聞こえへん」と怒り、路上にあった自転車やごみを投げ付けたのが発端。(暴走族)グループの一部が反発し、殴り合う騒ぎになった。
双方とも30~40代が中心とみられる。”
引用元:西日本新聞
マジ?!双方とも?!「暴走族側」も30~40代中心?!
今頃ネット上で炎上しているのが目に浮かびます。
「30~40代で何やってんだ!!」「こいつら社会のゴミだ」的な。見たくないので見ませんが。
まあ程度の差はあれ、ふつうはそう思うし、そう思うのが”まとも”であるとされています。
でもでも・・・
これを見てふと感じてしまったのが、若者は大人しいと”草食系”と言われてしまい、中年が無茶すると”社会不適合者”扱いされてしまうこと。
要は「無茶をするのはハタチまで」という社会的な暗黙の了解。これ何も疑問に思わずに受け入れてしまって良いものなのか・・・
無茶が許されるのは若者だけ。いい大人が無茶するのは許されない。
こんなセリフは当たり前のように日常的に使われるけど、最近とても反発を覚えています。
いい大人は無茶すべきではない。
一見正しいようにも見えるけど、無茶にもいろいろあり、世の中に大きく貢献するものや価値のあるものを創り出した人の背景には大抵「無茶」があります。
「暴走族の乱闘」と「偉人たちの背景にある無茶」を一緒にするな!という声が聞こえてきそうですが、偉人たちの無茶は今になって振り返るから「偉大な無茶」として存在できているだけだと思うのです。
要は良い結果が産まれる前は、それらは「単なる無茶」でしかないし「偉大な無茶」など存在しないということ。
そしてもっともっと重要なのは、少しの無茶も許容しない社会がイノベーションを生み出して世界を引っ張ることは絶対にできないということ。
だって、イノベーション・革新は「今までに無いものを創り出す」ということなんだから、「正しいことだけをやってイノベーションを起こす」なんて論理的に矛盾しているからです。
日本に起業家が少ないとか、「改善」は得意だけど「革新」が生まれにくいと評されるのは、この「無茶を許容しない」という風潮が強いことと密に関連していると思う。
だから「いい大人は無茶すべきではない」という考えは、悪いことだけでなく良いことも含んだあらゆる可能性を摘んでしまうものだとも思う。
かつて大島渚監督が「愛のコリーダ」という映画の中で「本番セックスと性器」を撮影して社会問題になったことがあります。
21世紀の今でこそポルノではない「本番セックス」を撮影した映画は何本かあるようですが、「愛のコリーダ」が撮影されたのは1976年。
タブーどころか犯罪でした。
本番セックス・性器が撮影されたフィルムを日本で編集すると検察に押収されると考えた大島監督は、未現像のフィルムをフランスに送りフランスで編集。
編集を終えたフィルムを日本に送り返した大島監督はわいせつ罪で起訴されました。
この時点でほぼ犯罪者で「無茶」を超えています。
裁判では検察から「これは芸術ではない!ワイセツではないか!」と指摘され
「ああ、これはワイセツだ。何が悪い?」
と堂々と答えたという。
結果的に無茶を許容したフランスでは「愛のコリーダ」は大ヒットを記録。カンヌ映画祭でも絶賛された「歴史的な映画」として映画史に名を刻む作品となりました。
そして無茶が許容されない日本では、40年経過した現在でもオリジナルを上映することができない。
そう・・・自分にも他人にも、無茶を許容する余裕って絶対に必要だと思う。
無茶をする側に必要なことを敢えて言うのであれば、信念と意志を持って無茶をする。
そしてそれを見ている側は、無茶する人が再起不能になるようになるまで叩くことは絶対にしない。ってところでしょうか。
「暴走族の大乱闘」の話しからどこまで飛躍してんだか・・・
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